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散々アルバと言い争った結果、フェンリルの名前が決まった。
というか、アルバにごり押しされた。
アルバの亡くなった娘さんの名前を貰う事になったのだ。

『レティシア』

いつか、フェンリルに嫌気がさした時に名乗れるように、と。


「後は結界だな」


じっとフェンリルを見詰める。そのアルバの周囲には清廉な空気が漂う。

流石はシュタウフェンベルク家最強の盾、と納得する。
その間もフェンリルの身体に薄く、緻密な盾を巻き付けていく。

盾を身体に纏う、その度にフェンリルの尋常ではない魔力が薄れていった。


「…いつまで持つか、だなぁ」


全身にじっとりと汗をかいたアルバは溜め息と共に重い言葉を吐き出す。

ネイサンは険しい顔はそのままで口を開く。


「自分で魔力を操れる様になるまでは頑張るさ」


「ふっ、確かに、な」


愛おしむ様にアルバはフェンリルの頬を撫でた。
その影の色が来た時よりも濃くなっている事にネイサンは、ふと気付いた。
庭を見ると日が陰り、赤色に染まっていた。
それにネイサンは肩を揺らすほど驚いた。


「まずい!」


冷や汗を流しながらアルバからフェンリルを取り上げる。
アルバは面白く無い、と顔に出しながらもネイサンが慌てる理由を言い当てた。


「奥方か?」


「今日は早く帰るって約束させられたから!!」


慌ただしくも、産まれたばかりの赤子を丁寧に扱う理性は残っていたようで、しっかりと抱き上げる。


「今度はシュネルと奥方も一緒に来なさい」


「解ってるよ!」


慌ただしく出て行き、ネイサンは自宅に帰り着いた時の言い訳を考えた。
今現在のフェンリルは無害な赤子になっている。説得はしにくい。
実物がこれではなぁ、と溜め息を零した。
味方になってくれそうなのは、今年で七歳になる最愛の息子であるシュネルだけであろう。


「どうするかなぁ」


自宅のドアをあっさりと開けながらネイサンは零す。


「どうせ私が受け入れるって解っていながらその言葉?捻てるわよネイサン」


ドアの真正面には仁王立ちして腕を組んだ美女。
明るい茶色の猫毛を揺らし、緑の瞳。
猫の様なアーモンド型の瞳はきらきらと苛立ちに光っていた。


「…やぁ、そうだと思ったよ。フェスティナ嬢」


内心は冷や汗を垂らしつつ、爽やかな笑顔を自分の妻に向ける。
その顔が大いに気に入らなかった様で、フェスティナは噛み付く様に言い募る。


「あれほど私がどこにも寄って帰るなって言ったでしょう!?私の予知通りに赤ちゃんまで連れて!!嫌がらせでしょう!!」


「まさか。当代一の予知者であるフェスティナ嬢の言葉を無下にはしないですよ」


あはは、と言う笑いさえも怪しい。
しかし、フェスティナの良い所は怒りを持続させないこと。
そして、本当に困っている人間には無条件に手を差し延べる寛容さがある。

まさに、最強、最愛の素敵奥様なのだ。


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産まれて直ぐに『フェンリル』と名付けられることは、まず無かった。
しかし、それをしてしまうほどの魔力。
慎重に幾重にも折り重ねる様に結界をフェンリルに張り巡らす。
自分の魔力に押し潰されかねない。
これは前の『フェンリル』であるアルバ爺さんにも頼むか、と考えを廻らせた。
家には妻と七歳になる息子がいるのだ。
怯えない程度の魔力に抑えないと連れて帰る事も出来ない。


「アルバ爺さん、頼みたい事があるんだけど」


そう言いながら入ったのは小さな一軒家。
ドアのすぐ前にはテーブルに椅子。
その右奥の庭に面した所に椅子に腰掛けた老紳士がいた。


「おぉ。ネイサンか。どうした?」


「この子に結界を張ってやってほしいんだ」


どれ、とアルバと呼ばれた老紳士は椅子からゆっくりとした動作で起き上がる。
ネイサンの手元の布を覗き込み眼を開く。
しわがれた手で赤子の額や頬を撫でる。


「……これは、また」


言葉に詰まるのもよくわかっていた。
自分がそうだから。


「この子の名は?」


「…………フェンリル」


ぼそっと聞き取り難い声の大きさで告げる。
きちんと聞き取ったアルバはくわり、と眼を見開くと憤怒の形相でネイサンを殴り付けた。


「っ馬っ鹿者が!!」


「わかってるよ!!」


殴られた頭を押さえる事も出来ずにネイサンはアルバを睨む。
アルバは顔を赤らめさせながらもう一度殴る為に拳を振り上げる。


「よりによって『フェンリル』だと!?そんなにこの名から逃げたいのか!!お前は!!」


「当たり前だろ!?こんな重圧、欲しがる奴にくれてやるよ!!」


がつん、と今度は頬を殴られた。
緩んでいたので口の中を盛大に噛んだ。


「その子が欲しがったか!?この、大馬鹿者が!!」


ぐ、と言葉に詰まる。自分がしたことはこの、何も知らない無垢な赤子を贄に差し出したのと変わらない。


「……解ってるよ全部。だから俺が育てるんだ」


「……お前ではなく、フェスティナ殿が、だろう。馬鹿たれ」


あぁ、痛い所ばっかり突いてきやがって。
でも、姉さん達に任せるよりもよっぽどマシだ。
姉さん達は自分を守りたいから、絶対に老獪な長老連中に自分の子供を差し出すだろう。
眼に見えてる。


はぁ、と盛大に溜め息をアルバは吐き出し、険の和らいだ顔を向けて来た。


「で、この子の名はきちんと決めたのか?」


「…………まだ」


今度は軽くぺしん、と頭を叩かれた。
そのままアルバは腕から赤子を奪う。


「誰の名を継がせるかなぁ」


私の名を継がせるか、と言い出すので待ったをかける。


「あんたの名前はうちの子に継がせただろ」


「あぁ。そういえば。シュネルに付けたか。」


はぁ、と今度はこっちが溜め息を吐く番だった。
大事な事も言っていなかったが。


「アルバ。その子、女の子だから」


アルバは驚き、もう一度腕の中の赤子を見つめた。
それを眺めながら、一つだけ考えていた名前がある、とアルバに切り出す。


「グラディウス女史の名前なんてどうだ?」


アルバが少し眼をあげる。

顔には妙案、とある。
にやりとネイサンは笑った。
名付け親は俺だ、と笑ったのだ。


「確かに、女性初の『フェンリル』だったが。あれは男の名前だぞ」


「大丈夫だよ。この子がフェンリルを棄てる時にはきちんと女の子らしい名前にするから」


「私が考えるぞ!」


意気込むその姿は、孫を可愛がる爺。
耐え切れず、ぶはっ、と息を吐き出して大声で笑った。


次へ
ここ、シェルバ帝國に一人の赤子が産まれた。その赤子の父親も、産んだ母親も驚愕と恐怖で自らの子供を抱けずにいた。
元々、シェルバ帝國最強の魔力を誇る古参の大貴族、シュタウフェンベルク家だ。
魔力の強さには慣れている人間ばかり。
その上、魔力が一族でも下の方、という者でさえ一般の魔術者に比べれば桁違いである。
その一族のそこそこに魔力の高い両親が、産まれたばかりの赤子のあまりの魔力の高さに顔を青ざめさせていた。
二人は直ぐさま一人の青年を呼び寄せた。

フェンリル・ネイサン・ジュナイセン・シュタウフェンベルク。
もう直ぐ25歳になろうという青年は首を傾げながらもその部屋に入った。
両親は縋り付きながらフェンリルに訴えた。


「あの子が恐ろしいのよ!!あんなに強い魔力に私は耐えられないわ!!」


むせび泣く妻を抱き寄せながら夫も匙を投げたように呟く。


「あんな化け物が私の子供とは思えないのだ」


その言葉は青年には馴染みあるもの。
散々に周りに浴びせられた悪意の言葉。
自分の親に恐怖される悲しみ。
そんな運命をこの赤子もまた、辿ると思うと人事ではなかった。
そして、心の底ではひっそりと歓喜していた。

やっとこの『フェンリル』という重圧から解放されるのだ、と。

まだ自分が『フェンリル』を継いで10年。
周りにとっては、たった10年。
しかし、自分にとっては地獄のように長い10年だった。
自分の前任者は同等の魔力を持っていた為に受け継ぐのは先延ばしに出来ていた。
しかし、この赤子はそうはいかない。
長老達も既に動いているだろう。
シュタウフェンベルク家を創り上げた始祖と同等、それ以上の魔力を有する赤子の誕生だ。
自分を廃しにかかるだろう。そして、手中にして操ろうとするのだ。

それだけは避けるべき事態。
ならば、自分の役割は一つに絞られた。


「ノルアック義兄さん、マルディナ姉さん、俺がその子を引き取るよ。」


その言葉を待っていた二人は、直ぐに持って行けと赤子をフェンリルに押し付けた。
二人にはまだ子供が居た。だからこその反応だった。


「二人とも、この子の名前は?」


「…顔を見てから決めようと思っていたんだ」


つまり、名前も無い、と。
じっと見つめれば二人は苦い顔をして告げた。


「ネイサン、君の好きにすればいいよ」


この子の親であることまであんたたちは放棄するのか。

知らず瞳は凍てつく。
その眼差しで口許だけは笑みをなんとか形作った。


「なら、この子の名は、『フェンリル』だ」


二人は眼を限界まで見開いた。
恐ろしい物を見る様に見つめられる。
しかし、ネイサンと呼ばれたフェンリルは意に介さない。


「俺の好きにすれば良いんだろう?ならこの子は今から『フェンリル』だ。俺はただのネイサンに戻らせてもらう」


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おぉ、という野太い声で構成されたどよめきを一切無視して、アルはバルアに水袋を押し付ける。
呆気に取られたバルアは無言でそれを受け取る。


「アルヴィは無駄に気前が良いんだから!」


頬を膨らませ、怒るサザにアルは渋面を向けた。
事の大きさがちっとも解っていない。
今や水一つで人を殺すのだ。
サザに氷室を管理させたのが間違いだったのだ。
アルはバルアに向き直る。
バルアは片眉を器用に吊り上げ首を傾げた。


「バルア。あんたに頼みがある。」


「アルが俺に頼み事か?明日は槍が降るか」


じろり、と睨みアルは口を開く。


「この馬鹿に任せたら孤児達が干からびるからな。」


「?干からびるって、大事だな」


まさしく大事なのだ。
サザは自分の欲望に忠実すぎる所があった。
自分の言うことを聞かない奴には徹底して嫌がらせをしてきた。

孤児院でのあだ名は

『暴君サザ』

これほど素晴らしく、ぴったりなあだ名はないだろう。


「せっかくここを出る時に作った氷室をたった3年でサザは台なしにしたんだ。」


氷室、と言う単語にバルアは眼を光らせた。
アルはバルアが食いついた事に内心ほくそ笑み、言葉を続けた。


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サザと呼ばれた少女はにっこりと笑う。


「だって、喧嘩を売って来たのはあっちよ?」


「……喧嘩売られる前に何言ったのさ」


サザに非があると疑わないアル。
それに不満げに頬を膨らませるが恐怖の対象にもなりはしない。

さらに口を開こうとしたら別方向から声を出された。


「サザはあいつらが汲んだ水を横取りしたんだ」


「バルア」


厳つい男が静かに告げる。
ごろつきの中で一、二を争う実力者。
それの言葉は信頼に足るものだった。
アルはサザを睨み付けた。サザはバルアを睨む。
埒が明かない、とアルは持っていた水袋をバルアに差し出す。


「ちょっと、アル!」


慌てるのはサザ。バルアは眼を見開きアルを見つめる。
アルはその視線に何を思ったか首を傾げた。


「返すだけでは足らないか?」


ならば、と水がまだ入っていない水袋を手に取る。アルがそれに視線を注ぐだけで周囲にひんやりとした空気が漂う。

ふと視線を水袋にやれば、今まで萎んでいた袋がはち切れんばかりに膨らんでいた。


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